第1章 ドバイ・アブダビ-基礎知識

基礎知識

■ 正式国名 ➡ アラブ首長国連邦

アラビア語名:
 (アル・イマーラート・アル・アラビーヤ・アル・ムッタヒダ)
略称: (イマーラート)
 首長国を意味する「イマーラ」の複数形
英語名:United Arab Emirates(通称UAE)
[7 つの首長国]
アラブ首長国連邦(UAE)は、7つの首長国(アブダビ首長国、ドバイ首長国、シャルジャ首長国、アジュマン首長国、ウンム・アル・カイワイン首長国、フジャイラ首長国、ラス・アル・ハイマ首長国)で構成されています。その中で中核的な存在が、アブダビ首長国とドバイ首長国です。
アブダビ首長国
アラビア語名: (アブー・ザビー)
英語名: Emirate of Abu Dhabi
ドバイ首長国
アラビア語名: (ドゥバイ)
英語名: Emirate of Dubai

■ 国旗

UAEの国旗は、汎アラブ色として知られる赤、緑、白、黒の4色からなります。由来は諸説ありますが、赤は聖戦の血と勇気、緑は希望と豊かな国土、白は清らかさと平安、黒は敵に屈しない心を表しているともいわれます。また、各首長国には独自の国旗があります。ドバイ・アブダビの国旗は赤と白を基調としていて、その由来はUAEと同じものになります。

■ 面積・国土 ➡約83,600㎢

UAE全土の面積のうち、アブダビ首長国が約6万7,300㎢と80%強を占めており、他の6つの首長国を圧倒しています。ドバイ首長国の面積は3,885㎢で、アブダビ首長国に次ぐ2番目です。
国土の大半が平坦な砂漠地帯で、ドバイ、アブダビといった大都市があるのはペルシャ湾に沿った地域です。また、アブダビ首長国第2の都市であるアル・アインのような砂漠のオアシス都市や、小規模ですがホルムズ海峡の東側に位置するオマーン湾に面した港湾都市もあります。

■ 連邦首都➡アブダビ 

アラビア語名:
英語名:Abu Dhabi
ペルシャ湾岸に位置するアブダビがアラブ首長国連邦(UAE)の首都で、アブダビ首長国の首都も兼ねています。UAEではドバイに次ぐ第2の都市で、政府機関やアブダビ国営石油会社などの石油関連施設が多く集まる、政治と石油産業の中心地です。
2005年に約80万人だった人口は2013年には245万人になっており、首都機能の郊外移転などのいくつもの大規模都市計画が進められています。今後も大きな変貌を遂げる都市のひとつでしょう。

■ 気候

UAEのほぼ全域が典型的な砂漠気候ですが、人口の集中するドバイやアブダビなど海岸沿いの一部の地域は、亜熱帯乾燥気候に近く、季節の変化と少量ながら降雨があります。
以下に、UAEとドバイ・アブダビ各都市の年間気温をまとめました。夏場は40℃を超え、ときには50℃を超える日もあり、雨は降りません。一方、11月から2月にかけて、少量の雨も降り、東京の初秋くらいの肌寒さを感じることもあります。年間を通じて暑いと思われがちですが、夏と冬の気温の変化が特徴的です。

■ 時差 ➡ -5時間(UTC+4)

UAEと日本との時差は-5時間で、日本の正午がUAEの午前7時です。サマータイムの導入はありません。

■人口 ➡UAE944万人超

UAEは総人口が急激に増加している国です。1980年代には100万人ほどでしたが、1990年代に200万人、2000年代に入って300万人を超え、2014年の推計値では944万人を超えています。
この背景には、労働力として入国している外国籍人口が急増し、総人口の9割近くを占めるようになったことが挙げられます。約730万人の外国籍住民はほとんどが単身労働者で、男性が多く、男女比は、約3:1となっています。また、人口ピラミッドでわかるように、労働適齢人口が突出して多く、非常に偏った人口分布になっています。一方、UAE国籍人口は、7首長国合計で約95万人、全人口の1割強です。
最新データ(2014年現在)では、UAEの人口は900万人を超えています。またドバイの人口は220万人、アブダビの人口は197万人となります。

■ 言語 ➡ アラビア語(公用語)

UAEの公用語はアラビア語です。また官公庁の公文書は基本的にはアラビア語で記載されます。しかし、UAEでは多くの人が共通言語として英語を話すため、通常のコミュニケーションは英語でなされることが多いです。また外国人労働者が多いため、インドなどの南アジアの言葉が話されていることもあります。

■ 通貨 ➡ UAEディルハム(略称AED)

1966年以前はアラブルピアが流通していましたが、その後はカタール・ドバイ・リヤルが流通した時期を経て、1973年からは現在のUAEディルハム(Dh)となりました。補助通貨はフィルス(Fils)で、UAEディルハムの100分の1です。
紙幣(いずれもUAEディルハム)には1000、500、200、100、50、20、10、5の8種類があります。硬貨は1ディルハムのほか、フィルスは50、25の3種類です。USドルも一部ショッピングモールやホテルでは利用可能です。

■ 宗教 ➡ イスラム教

イスラム教が国教ですが、信教の自由は認められています。多くの外国労働者の信仰は保証され、宗教施設を作ることもできます。
イスラムの戒律の厳格さは首長国によって異なります。最も緩いのがドバイ首長国で、酒類の販売が認められ、外国人ならば肌を露出した服装をしてもよいということになっています。イスラム教徒でない外国人が多く住み、観光地としての側面も持つことから、イスラム教の戒律が緩和されていると思われます。しかし、イスラム圏の一般常識として、公共の場で飲酒をしない、気安く女性に握手を求めないなどの配慮は必要です。
それに比べ、アブダビ首長国の信仰はやや保守的で、シャルジャ首長国は最も厳格です。

■ 政治体制

[政治体制]
7首長国による連邦制(各首長国は絶対君主制)
[元首]
大統領:ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン殿下(兼アブダビ首長)
[議会]連邦国民評議会(定数40名、任期4年)
[政府]
首相:ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下(兼副大統領、ドバイ首長)
外相:アブダッラー・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン殿下
UAEは、独立性が高く主権を有する7つの首長国で構成される連邦制の君主国家です。各首長国にはそれ ぞれの首長家が存在し、首長家内で首長が世襲されます。連邦の実質的な最高意思決定機関は、7人の首長の合議により意思決定が行われる最高評議会です。最高評議会から連邦の大統領と副大統領が選出され、大統領が首相を任命し、首相が組閣をすることになっています。実際は、大統領はアブダビ首長家から、副大統領はドバイ首長家から世襲により就くのが慣例となっています。国会にあたるのは、連邦国民評議会とされており、半数は各首長による任命、半数はUAE国籍民のみによる選挙によって選出されます。
しかし、立法権が限定的で、内閣の成立に連邦国民評議会の承認を必要としないため、実際には諮問機関的な役割です。改正を求める声があがっていますが、実現はしていません。
連邦制をとっているため、連邦政府と首長国政府の行政機能は異なります。連邦政府は、連邦財務、外交、軍事、治安、教育等を管轄し、各首長国政府は、経済開発、天然資源の処分権を有します。各首長国が連邦財政に応分の負担をすることになっていますが、実際には石油資源の豊富なアブダビ首長国が突出して多くの負担をしています。

■ 歴史

[バニー= ヤース部族の移住]
ペルシャ湾の入り口にあたるこの地域は、古くからイスラム帝国、オスマントルコ、ポルトガルなど、その時代の強国の支配下にありました。
18世紀にアラビア半島の南部の遊牧民であるバニー゠ヤース部族が淡水のあるこの地に移住、アブダビにナヒヤーン家が定住、ドバイにマクトゥーム家が定住しました。遊牧民や漁民が暮らしはじめたこれらの小さな集落が、現在のUAEの中核都市となっているアブダビとドバイの原形です。
[ 湾岸の休戦協定からイギリスの保護国へ]
18世紀後半、部族の首長たちはペルシャ湾を往来するヨーロッパ諸国と対立をしていました。しかし、19世紀になると、海賊行為を抑えることを名目としてイギリスとの間に休戦協定が結ばれ、さらに、1892年には、各首長国の外交と内政の管理権をイギリスに与える独占的協定が結ばれ、イギリスの保護国となりました。このころからイギリスがドバイを東インド会社への中継地としたため、周辺地域の商人が集まるようになりました。
[油田の発見]
第二次世界大戦後、湾岸地域での石油探索が盛んになり、1958年にアブダビで、1966年にドバイで油田が発見されました。ドバイは石油による資金を元に港湾の整備などを行い、交易拠点としての礎を固めました。アブダビは当初は経済開発に消極的でしたが、その後、首長家内でクーデターが起き、開発重視へと路線変更がなされました。
[イギリスの 撤退とUAE の樹立]
第二次世界大戦後、インドの独立を契機として南アジアや中近東に独立の機運が広がります。1968年イギリスがスエズ以東から 撤退を表明するとともに、湾岸地域でも独立の動きが活発になり、湾岸の9首長国による連邦制が模索されました。バーレーンとカタールは単独国家を目指すことになりましたが、アブダビとドバイは連邦に合意しました。
1971年、アブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマン、ウンム・アル・カイワイン、フジャイラの6首長国による連邦国家を樹立、1972年にラス・アル・ハイマ首長国が加わり現在の7首長国制となっています。
[独立後の動き(アブダビ)]
アブダビ首長国は、独立前に首長家内クーデターを起こしたザーイドがその後も首長の座に就き、UAEの独立後は連邦初代大統領として、2004年に死去するまで30年以上にわたり連邦国家元首として君臨しました。現在は、ザーイドの長男のハリーファが連邦第2代大統領となっています。
[独立後の動き(ドバイ)]
ドバイの発展は、建国の父ともいわれているラーシド首長により進められました。1972年にはラーシド港、1979年にはジュベル・アリ港を開港、1980年代にはジュベル・アリ・フリーゾーン経済特区を開設、エミレーツ航空の就航など、次々にインフラ整備が進められした。その結果、外国企業のドバイ進出が進み、物流の集積地として発展し、石油依存の経済からの脱却を遂げていきます。
[OPEC 加盟とオイルショック]
1973年に起きた第四次中東戦争(パレスチナ紛争)を契機として、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格の引き上げや減産などを決め、第一次オイルショックが起き、世界中に大きな影響を及ぼすこととなります。UAEが加盟しているOPECは、産油国の存在感を世界に示すこととなりました。
[湾岸地域の紛争とUAE の現実路線]
UAEの近隣湾岸地域の産油国では20世紀後半から紛争が絶えません。1980年代にはイラン・イラク戦争、1990年にはイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争、2003年にはアメリカ軍を中心としたイラクへの侵攻によるイラク戦争が起きています。そのような中、UAEはサウジアラビアとともに保守穏健派として、石油の安定生産と経済を優先した立場を確立して経済発展を遂げました。
[ドバイの奇跡とドバイショック]
1990年代に物流ハブ、金融センターとして一定の地位を確保したドバイは、さらに、中近東随一の観光都市としての開発投資先となりました。「ドバイの奇跡」と呼ばれた高成長と急速な開発が進み、数え切れないほどの大型開発プロジェクトが展開されました。2000年代後半には世界金融危機とそれに続く原油価格の暴落の影響を受け、「ドバイショック」と呼ばれるバブルの崩壊が起きました。
しかし、金融センターとしての重要性、物流ハブとしての存在感は無視できないほどの発展を既に遂げています。ドバイショックからの復調の先に、今後の新たな進化を模索しています。
[「アラブの春」と今後のUAE ]
2010年にチュニジアで始まったいわゆる民主化運動がアラブ諸国に広がり、「アラブの春」と呼ばれるに至っています。しかし、UAEにおいては国民の所得水準が高いことや、外国籍労働者が国政に無関心といった背景もあり、その影響がほとんどなかったといわれています。逆に、ドバイ・アブダビでは政情不安の国々を避けた資金や人材の受け入れ先としての今後に期待が高まっています。

■ 教育制度

UAEの学校制度は6・3・3・4制です。小学校が6歳からの6年、中等学校が3年、高等学校が3年、大学が4 ~ 5年となります。義務教育期間は小学校の6年間のみですが、ほとんどの生徒は中等学校に進学し、高等学校への進学も多く、海外留学も盛んです。教育に対しての意識はとても高く、UAE国籍であれば、すべての男女生徒に対して国立の学校は小学校から大学まで無償で一定の教育が提供されます。
教育を統括するのは連邦教育省で、日本の文部科学省に当たるものです。首長国にはそれぞれ教育局が設けられています。公立学校はイスラムに基づいた教育が行われ、男女別学です。また、多くの外国人が居住するため、イギリス、アメリカ、インドなどの多くの国の学校があり、日本人学校もドバイとアブダビに設立されています。

参考文献

・ 外務省