基礎知識
■正式国名 →ケニア共和国
■英語名:Republic of Kenya
■国旗
1963年に英国植民地からの独立時に制定された国旗です。黒はケニア人の誇り高き肌の色、赤は独立のために流された血、緑は恵みあふれる自然、白は平和と団結を、中央の紋章はマサイ族の盾と槍を表しています。
■面積・国土 → 約58.3平方キロメートル (日本の約1.5倍)
東アフリカの赤道周辺に位置し、北はエチオピアと南スーダン、西はウガンダ、南はタンザニア、東はソマリアと国境と国境を接し、南東はインド洋に面して480㎞の海岸線を有します。
ケニアは高原の多い国で、標高900メートルを境にして、南東部の「高地ケニア」と、インド洋沿岸や北部国境近辺の「低地ケニア」に分けられます。一般に西部は標高が高い地域で、国土のほぼ中央の赤道直下にケニア山(5,200m)があります。また、南北にアフリカ大地溝帯(リフト・バレー)が貫いることでも有名です。
■首都 → ナイロビ
首都ナイロビは、市域人口約360万人(2013年)、都市圏人口では473万人(2015年 国連人口基金推計)を擁する東アフリカ最大の都市です。ケニアのGDPの半分を生みだす経済の中心で、東アフリカの中心都市でもあります。また国連環境計画 (UNEP) や国連人間居住計画 (UN-HABITAT) など国連機関が置かれている国際都市でもあります。
ナイロビはマサイ語で「冷たい水」を意味します。赤道に近いもののケニア高原の標高約1600mに位置し、気候が冷涼で豊富な水が得られる土地柄にあります。19世紀末にイギリス入植者による開発が始まり、1907年にイギリス領東アフリカの首都となりました。1963年にケニア共和国が独立したのちも首都となり、現在に至ります。
20世紀~21世紀にかけて農村部からの人口流入が進み、近年は人口増加率が年平均5.5%という高さで、2030年に市域人口が520万人に達すると予測されています。急激な人口増加にともない、交通渋滞、スラムの拡大、治安の悪化などが深刻な問題となっており、ケニア政府・ナイロビ市は「ナイロビ都市マスタープラン(NIUPLAN)2030」に基づき、都市機能の向上を目指しています。
■人口 → 4,486万人(2014年 世界銀行)
ケニアの人口は急激に増加を続けています。1986年に2千万人、1999年に3千万人、2010年には4千万人を越え、2014年現在で4,486万人(世界銀行)となっています。近年は毎年約100万人ずつ人口が増えており、年平均の増加率は約2.6%の高さです。国連の予測では2030年には6,541万人、2050年には9,550万人となっています。
多くのアフリカ諸国に言えることですが、出生率が高いため自然増が続いており、人口ピラミッドを見てみると若年層人口が多い富士山型(ピラミッド型)となっています。平均寿命が60歳(男性59歳、女性62歳)で先進国にくらべると20年以上の開きがありますが、5才以下の死亡率は11.0%(2000年)から7.3%(2012年)へと改善されています。
出所:世界銀行
■気候
ケニアの気候は、南東からのモンスーン(季節風)の影響を受けるため、多くの地域で雨季と乾季がはっきりしています。ナイロビなどのケニア高地や、キスムなど南東部のビクトリア湖周辺の地域は、雨季が1年に2度あり、3月~6月が「大雨季」、10月~12月が「小雨季」と呼ばれ、それ以外が乾季です。ナイロビは年間を通して気温差が少なく、赤道付近にありながらも高原の過ごしやすい気候です。
一方、モンバサなどインド洋沿岸は熱帯サバナ気候に属し、年間を通じて高温多湿です。また、北東部の国境地帯はステップ気候や砂漠気候に属し、非常に暑く乾燥しています。
■時差 → ‐6時間(UTC +3)
東アフリカ時間(EAT)をとっており、日本時間マイナス6時間となります。例えば、日本時間の正午が、ケニアでは午前6時です。また、日本時間の午後6時がナイジェリアの正午にあたります。
ケニア時間は、グリニッジ標準時間より3時間進んでおり、日本との時差は-6時間です。サマータイムは導入していません。
■通貨 →ケニア・シリング(略:KSh)
1ケニア・シリング=1.16円(2015年12月25日現在)
通貨単位はケニア・シリングで、通貨記号はKShと書きます。補助通貨であるセント(1 KSh =100セント)も存在しますがあまり流通されていません。
紙幣は1000Ksh、500Ksh、200Ksh、100Ksh、50Kshの5種類。硬貨は40Ksh、20Ksh、10Ksh、 5Ksh、1Ksh、50 cent、10 cent、5centの8種類ですが、5Ksh以下は流通量が非常に少ないものと思われます。
■民族
ケニアは多民族国家で、42にもおよぶ民族があるとされています。おもな民族は、キクユ族22%、ルヒヤ族14%、ルオ族13%、カレンジン族12%、カンバ族11%、キシイ族6%、メルー6%族などで、その他のアフリカ系民族が合計15%います。また、少数ですが経済的に大きな影響力を持っているイギリス系やインド系(印僑)もいます。
ケニアでは民族間対立が建国以来の課題となっています。大統領の出身民族によって特定民族の優遇策が公然と行われてきた歴史もあり、2007年~2008年には選挙結果の不正を抗議する運動に端を発した暴動が、「ケニア危機」と呼ばれる民族間紛争にまで拡大し多数の死者を出しました。
■言語 → 国語:スワヒリ語、 公用語:英語、スワヒリ語
タンザニアやウガンダなど東アフリカで広く使われるスワヒリ語が、ケニアの国語とされています。公用語はイギリスの植民地であった歴史を背景として長らく英語でしたが、2010年の憲法改訂により英語とスワヒリ語の2つとなりました。現状では、従来に倣って英語が使用されることが多いと言われています。
ケニアは多民族国家ですので、キクユ語、ルヒヤ語などそれぞれの民族言語があり、東アフリカの広域言語であるスワヒリ語があり、さらに公用語のひとつ英語があるというやや複雑な言語事情にあります。中等教育以上ではほとんど英語が使用されており、スワヒリ語圏では英語の話者がもっとも多い国の1つです。
■宗教
キリスト教徒が多数派で、プロテスタントが47.4%、カトリックが23.3%、その他に古代キリスト教などを含め82.5%を占めます。次いでイスラム教徒が11.1%、伝統宗教が1.6%、少数ですがヒンドゥー教徒もいます。
これらの宗教分布は、古くからさまざまな民族との接触や移動、貿易が盛んに行われてきたケニアの歴史を背景としています。大航海時代に訪れたポルトガル人からもたらされたカトリック、イギリスの植民地時代に定着したプロテスタント、エチオピア経由でもたらされた古代キリスト教、アラブ商人の貿易拠点として栄えた海岸地方やソマリア国境に多いイスラム教、イギリス植民地時代に労働力として連れてこられたインド人によるヒンドゥー教などです。
政治体制と歴史
ケニアの政治体制
[政治体制]
共和制(大統領制)
[元首] ウフル・ケニヤッタ大統領
(2013年4月就任 任期5年)
[国会] 国民議会 (二院制 上院・下院)
上院:68議席 (任期は5年)
下院:350議席(任期は5年)
※2013年に一院制から二院制に移行
[政府]副大統領 ウィリアム・ルト
外務・国際貿易長官 アミナ・モハメド
2010年に憲法改正のための国民投票が行われ、選挙制度改革、土地所有権改革、大統領権限の制限、イスラム法廷の設置などの条項を含む新憲法が承認されました。 2013年の大統領選挙および議会選挙より新憲法のもとで行われ、国民議会は二院制となりました。
ケニアの歴史
■アラブ人の到来とスワヒリ文明(~10世紀)
古くからバントゥー語系農耕民やナイル語系牧畜民などが定住していた東アフリカ地域に、7~8世紀ころにアラブ商人たちがたびたび訪れるようになり、モンバサなどインド洋沿岸部に交易拠点を建設します。10世紀ころにはバントゥー語とアラブ語が融合したスワヒリ語が生まれ、盛んな交易によるスワヒリ文明が繁栄します。
■大航海時代とオマーン帝国(15世紀~18世紀)
15世紀末にモンバサはポルトガルの極東貿易の拠点となります。17世紀にはアラブ人による影響力が復活し、その後、海洋交易によってアラビア半島から東アフリカまでの沿岸部に拡大したオマーン帝国の支配下となります。
■イギリス植民地時代(19世紀~20世紀)
19世紀に欧州各国によるアフリカ進出が盛んになり、東アフリカ地域はドイツとイギリスによって争われることとなります。1885年に始まるベルリン会議によって、欧州各国によるアフリカの分割が決定、1888年にイギリス東アフリカ会社発足、東アフリカ保護領を経て、1920年にイギリス直轄の植民地となりました。この間、モンバサからウガンダまで鉄道が建設され、イギリスの支配は内陸におよぶこととなります。この鉄道建設のために多くのインド人が連行され、やがて定住することとなります。
■民族運動の始まり(1920年~)
1920年代にキクユ族を中心としてイギリス植民地支配からの独立運動を求める政治運動がはじまり、1940年代にはキクユ族、ルオ族、カンバ族など複数部族によるケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が結成、1947年にはジョモ・ケニヤッタが合流してケニア・アフリカ同盟(KAU)が組織されました。
■「マウマウ運動」と植民地支配の終焉(1952年~1960年)
1952年、KAUから分離した急進派ケニア土地自由軍(KLFA)による白人農園の襲撃などをきっかけに、独立運動「マウマウ運動」が起き、激化し拡大していきます。イギリスが投入した正規軍にゲリラ戦で応じるなど、激しい抵抗運動が続きましたが、ジョモ・ケニヤッタを含む数千人という逮捕者と1万人を超える死者を出す結果となりました。しかし、イギリスはこれをきっかけに植民地政策の方針転換をすることとなります。
■ケニアの独立とケニヤッタ政権(1963年~1978年)
1963年ケニアは英連邦王国として独立を果たし、前年に解放されたジョモ・ケニヤッタが首相となります。翌1964年に共和制へと移行し、ジョモ・ケニヤッタが初代大統領となりました。ケニヤッタ政権は、事実上ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党支配のもと、1978年にケニヤッタ大統領が死去するまで続きます。
■モイ政権と一党独裁体制(1978年~2002年)
ケニヤッタ政権で副大統領であったダニエル・アラップ・モイが1978年大統領就任。1982年には国会にて一党国家を正式に承認、憲法も改正されました。また、モイ大統領の出身であるカレンジン族優遇策などにより、キクユ族との軋轢は拡大しました。反体制派の弾圧など独裁的な手法への批判から、1991年に複数政党制が復活しましたが、対抗勢力の足並みが揃わず、モイ大統領は再選を繰り返し5期24年間の長期政権を維持しました。
■キバキ大連合政権と民主化(2002年~2013年)
2002年の総選挙で、KANUが分裂し小政党との連合「国民虹の連合(NARC:NationalRainbowCoalition)」が勝利しムワイ・キバキが第3代大統領に選出され、24年振りの政権交代となりました。連合政権により言論の自由や民主化が進展しましたが、出身部族であるキクユ族への優遇批判や憲法改正案が国民投票で否決など、厳しい政権運営に直面することになります。
■ケニア危機(2007年~2008年)
2007年12月の大統領選挙は、2期目を目指すキバキ対ライラ・オディンガ(ODM:オレンジ民主運動)の一騎打ちとなり、オディンガ優勢の観測のなか12月30日に選挙管理委員会がキバキの当選を発表しました。野党側が選挙の不正を主張した抗議行動が暴動と化し、キクユ族への激しい攻撃と各地で民族対立が起きました。国連のアナン事務総長の調停によって、キバキ大統領、オディンガ首相という連立政権となり、翌2月に混乱は収束しましたが、死者1,500人、国内難民50万人を超える惨事となりました。
■ウフル・ケニヤッタ政権誕生(2013年~)
初代ジョモ・ケニヤッタ大統領の息子ウフル・ケニヤッタ(TNA:国民連合)が、2013年3月総選挙でオディンガ(ODM)を僅差で破り、第4代大統領に就任、国民連合(TNA)を中心とした「JUBILEE連合」による大連立政権となっています。独立以来の課題である民族間の融和に加え、アル・シャハブなどイスラム過激派などによるテロ対策が課題とされ、さらに、2030年までに中所得国入りを目標とする「ヴィジョン2030」によって、マクロ経済の改善と経済成長、公衆衛生や教育分野のインフラ整備を掲げています。
教育システム
ケニアの教育制度は、旧宗主国であるイギリスの教育制度に基づいて7-4-2-3制をとってきましたが、1985年に教育制度改革が行われ、現行の8-4-4制となりました。初等教育(プライマリー・スクール)が6歳~14歳、中等教育(セカンダリー・スクール)が14歳~18歳、高等教育が18歳以上となっています。
「すべての子どもが初等教育を修了できるように」とう国連ミレニアム目標(MDGs)とケニア政府のコミットメントにより、プライマリー・スクールは2003年に無償化、2010年に義務教育化されています。しかし、事実上は施設費などの負担があるため、親の経済事情によって就学できない児童もおり、就学率は8割程度です。特に、東部や北部地域では就学率が低く、ナイロビやモンバサなどの都市部との格差があるとされています。また、人口増加率の高いケニアでは人口の約4割を15歳未満が占めており、就学児童数が急増しています。そのため、公立学校の設備と教員不足が深刻な問題で、裕福な家庭の子どもは高額な私立校に通わせることが多いです。教育は基本的に英語で行われますが、2010年に公用語に加えられたスワヒリ語教育も、近年は盛んに行われるようになっていると言われています。
セカンダリー・スクールは一般校と技術校があり、国立、州立、郡立などの公立校と、私立校があります。プライマリー・スクール修了時には全国一律の初等教育終了認定試験(KCPE)があり、公立校はその試験成績により上位から国立校に割り振られる仕組みとなっています。セカンダリー・スクール修了時には中等教育終了認定システム(KCSE)があり、これにより入学する高等教育施設が決まります。
高等教育は、2~3年制の職業・技術専門学校と4年制の大学があります。人口の増加と初等教育の整備により高等教育への進学者も急増しており、イギリスやインドなどへの海外留学が多いのもケニアの教育事情のひとつです。
参考文献
Central Bank of Kenya
Kenya National Bureau of Statistics
WHO(世界保健機構)
JICA
国立保健医療科学院