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第1章 タイ-基礎知識

基礎知識

■タイの基礎知識

■ 正式国名 ➡ タイ王国
タイ語名:プラテート・タイ
    (ราชอาณาจักรไทย)
英語名:Kingdom of Thailand
■国旗 ➡ トン・トライロング(三色旗)
タイの国旗は青、白、赤の3色からなり、 トン・トライロング(三色旗)と呼ばれて います。それぞれ、青が国王、白が宗教、赤 が国家と国民の団結心を表しています。
■面積・国土
タイは、カンボジア、ラオス、ミャンマ ー、マレーシアと国境を接し、またアンダ マン海・タイ湾という2つの海と接していま す。東南アジア・インドシナ半島の中央に位 置し、インド/ヨーロッパ方面と中国とを繫 ぐ交易の拠点として古くから発展を遂げてき ました。 国 土 面 積 は 日 本 の 約1.4倍 の51万 4,000k㎡で、おおよそスペインと同じ大き さになります。タイには76の県があり、① 中部平野地域、②東部海岸地域、③東北部 高原地域、④北部および西部山岳地帯、⑤ 南部半島地域の5地域で区別されています。これらの地域の大半は平 野で、国土面積の40%近くを農地が占めています。
 

■ 首都 ➡ バンコク

タイ語名:クルンテープ※ 英語名:Bangkok

※ 正式名称 クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤ ー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドム ラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サ ッカタッティヤウィサヌカムプラシット

バンコクは「天使の都」を意味します。バンコクの人口は約864.3 万人(2016年)で、首都圏面積は1,562.2㎢(東京都のほぼ4分の 3)となっています。

 

■  年号 ➡ 仏暦

仏暦を使用しています。西暦に543 年を加えると仏暦になります。

仏暦2563 年= 西暦2020 年= 令和2 年

釈迦の入滅を基準としており、タイの他ではカンボジアやラオスで  使われていますが、ミャンマー、スリランカで使われる仏暦は基準の  考え方の違いで1 年のズレがあります(タイの仏暦2563年=ミャンマーの仏暦2564 年=西暦2020 年)。

■気候

タイは全国的に熱帯性気候です。暑季(3~5 月)、雨季(6~10 月)、涼季(11~2 月)の3 シーズンに大きく分かれます。全国の年間平均気温は約28℃程度で、バンコクでは4月の平均気温は30℃程度、12月の平均気温は25℃程度です。

■時差
日本との時差は-2時間(UTC:+7:00)で、日本の正午がタイの午前10時です。サマータイムの導入は行われておりません。
■   人口
約6,891 万人(2 017 年)。大多数がタイ族で、その他、華僑、マレー族、山岳少数民族などが挙げられます。
■言語
タイの公用語はタイ語です。タイ語には独自の文字がありますが、  このタイ文字は13 世紀末にカンボジアのクメール文字に範を取って作られた表音文字です。現在のタイ文字は44 の子音文字と32 の母音文字があり、これらを組み合わせ、音節を作り種類の音調により発音されます。日常会話では地方によって方言があり、山岳部の少数民族は独自の言語を使用しています。観光地のホテルやレストランでは、英語も通じます。
■通貨
通貨はバーツ(Baht、略称:THB)で、補助通貨としてサタン
Satang)(1 バーツ= 100 サタン)があります。
紙幣は10 バーツ(茶色)、2 0 バーツ(緑)、5 0 バーツ(青)、1 00 バーツ(赤)、5 00 バーツ(紫)、1,0 00 バーツ(灰色)の種類がありますが、10 バーツ札はあまり見かけません。硬貨は25 サタン、50 サタン、バーツ、バーツ、バーツ、10 バーツがあります。
3.5 6 バ ー ツ(2 0 1 8 日 時 点 / 三 菱 東 京UFJ銀 行・TTM
円バーツレートは、2 008 年のリーマン・ショック以降、2.5  3 バーツの間で安定して推移していました。しかし、2 013 年以降は、第二次安倍内閣のアベノミクスによる大胆な金融緩和政策による   円安や、リーマン・ショック以来順調に回復しているタイ経済の影響  などから、円を超えるバーツ高となっています。
■タイの主な歴史
タイ王国の基礎は13世紀のスコータイ王朝より築かれ、その後アユタヤ王朝(14~18世紀)、トンブリー王朝(1767~1782)を経て、現在のチャックリー王朝(1782~)に至ります。なお、1932年立憲革命が起こり、絶対君主制から立憲君主制に移行しました。タイの主な歴史は以下の通りです。一般的なタイ人はタイ族による初の統一王朝であるスコータイ王朝以降をタイの歴史として認識しているようです。
■政体
立憲君主制(1932年以降)
元首 ワチラロンコン国王陛下/King Maha Vajiralongkorn (Rama Ⅹ)
現国王陛下は1952年7月28日生、2016年12月即位のワチラロ ンコン国王陛下です。 前国王は、1988年7月にタイ国王の中で在位最長記録(ラーマ 5世の42年22日を更新)を達成し、2016年6月9日で世界最長の 在位70年を迎えられましたが、2016年10月13日に88歳で死去。 前国王は在位70年と現役の国家元首で最も長かったため、大多数の タイ国民にとって今回が初めて目撃する王位継承となりました。タク シン元首相派と反対派の分裂が残るタイで、新国王が政治とどのような距離を取るかは不透明ですが、2018年4月6日に新国王が新憲法 案に署名し、新憲法が即日施行・公布されました。民主主義に逆行す る内容を含んでいましたが、国王側の要請で国王権限を強める修正も 行われたため、民主的な統治からさらに遠のく懸念が出ています。
[行政組織]
内閣は国王によって任命された首相1名および35名以下の国務大 臣(大臣・副大臣)によって構成されています。中央行政組織は1府 19省からなり、各省庁には国務大臣および一部省庁に副大臣が任命 されています。現内閣はプラユット・チャンオチャ首相(1954年3 月21日~)のもと2014年8月に発足しました。プラユット氏は、 タクシン元首相派による10年間のデモの強制排除では鎮圧を指揮し 反政府デモ隊を率いる陸軍司令官でした。2014年5月のクーデター でタクシン元首相派政権を打倒し全権を掌握したプラユット氏は、自 ら暫定首相に就くことで、政治・経済・社会の大幅な改革を目指して 国家運営のかじ取りを担いました。その後、プミポン国王の任命を受 けて暫定首相に正式に就任します。 地方行政は、県(チャンワット)、郡(アンプアー)、町(タムボ ン)、村(ムーバーン)という内務省を中心とする中央政府の直接的 な監督下にある縦割りの地方行政単位と、特別法に基づく自治市町、 県行政機構、区行政機構、バンコク都、パタヤ特別市といった地方自 治体が混在しています。 県知事、郡長は内務省官僚から任命されるものですが、バンコク 都、県行政機構等の地方自治体の首長は公選です(ただし、パタヤ特 別市は独自のシティ・マネージャー制を採用)。
[国会]
国会は上下二院制の議会制民主主義をとっています。上院は議員数 150名で任期6年、うち76名は選挙により選出、それ以外は国王に より任命されます。下院は任期4年で議員数500名、うち小選挙区 375、比例代表125より選出されます。
■教育制度
■ 教育制度 タイでは、1999年に制定された国家教育法により教育改革が進め られ、教育制度は、1978年より日本と同じ6・3・3・4制が採用さ れています。就学前教育(幼稚園)、初等学校(小学校)、前期中等学 校(中学校)、後期中等学校(高校)、高等教育機関(大学等)で構成 されており、義務教育期間は初等学校の6年間と前期中等学校3年間 の9年間で、これも日本と同様です。 2015年の後期中等教育(高校)進学率は82%、高等教育(公開 大学を含む大学)進学率は48%となっており、義務教育が終了する前の前期中等教育(中学校)の95%から大きく低下していることよ り、義務教育を終えた段階で就業する割合が高いことが伺えます。な お、世界銀行の集計によれば、2015年における識字率は94%で、 教育水準は比較的高いと言えます。タイ国内の日本語学習者は約13 万人で日本語学習にとても熱心で、日本語教育機関は600機関以上 あります。2014年度から「日本語パートナーズ派遣事業」が開始さ れ、タイにおける日本語教育の質的量的向上を期待したものとなって おります。
■ 政治・経済動向
[アジア通貨・経済危機]
1997年初頭、海外で調達した資金が不動産に流入したことなどに より、タイ経済はバブルさながらの様相を呈していました。しかし、 国際的投機筋の動きもあり、バーツ切り下げの圧力がかかり、政府は 為替管理制度を通貨バスケット制から管理フロート制に移行しました (1997年7月2日)。 その結果、バーツは大きく売り込まれ、その動きは他のアジア諸国 に波及し、アジア各国通貨が暴落し、金融機関や企業破たんが相次 ぎ、経済混乱に陥りました。これがいわゆる「アジア通貨・経済危 機」です。 同年8月5日、タイはIMF融資による172億ドルの受入条件を受 諾し、抜本的な経済構造改革に着手し、10月には、民主化を推進す る憲法改正を行いました。
[タクシン政権の発足]
このアジア通貨・経済危機の経済低迷が回復基調にあった2001 年、タクシン・チナワットを党首とするタイ愛国党が、中小企業や農 村重視の姿勢を打ち出し(デュアル・トラック・ポリシー)、国民の支持を得ました。そして同年の総選挙で圧勝し、タイ愛国党、新希望 党、国民党、自由正義党からなる4党連立のタクシン政権が発足しま した。国民の高い支持と下院における安定多数を基盤に、2005年1 月には、タイ政治史上初めて、議会の任期を満了する政権となり、同 年2月の下院総選挙を経てタイ政治史上初めて単独政権となりまし た。この間、これらの内需拡大政策の効果と見られる個人消費の活性 化等もあり、経済は2007年頃まで比較的高い成長を続けます。
[タクシン政権の崩壊とその後の政治混乱]
2006年になるとタクシン首相の政治手法、シンガポール系企業へ の株売却に絡む不正疑惑が浮上し、市民民主化同盟(PAD、通称「黄 シャツ」)を中心とする反タクシン運動が高まります。首相は下院を 解散し、同年4月2日に総選挙を実施しました。主要3野党は出馬を ボイコットし、愛国党は過半数票を得ましたが大量の白票で定員割れ となりました。首都などでは市民デモが繰り返され、首相は退陣の意 向を表明しました。憲法裁判所は選挙無効の判断を下し、再選挙が行 われる予定でしたが、9月19日夜、政治的混乱を収拾するとしてソ ンティ陸軍司令官率いる軍がクーデターで実権を握り、タクシン政権 は失権しました。
[タクシン政権崩壊後の政治混乱] 政変を受けて発足したスラユット枢密院顧問官(元国軍最高司令 官)を首班とする暫定政権の下、憲法起草議会により新憲法の起草が 行われ、2007年8月にはタイ政治史上初の国民投票により新憲法が 制定されました。 同年12月23日、同憲法に基づき下院総選挙を実施。愛国党を継 承する国民の力党が過半数に迫る議席を獲得し、2008年2月6日、 同党を中心とする6政党によりサマック党首を首相とする連立政権が樹立されます。外遊中のクーデターにより帰国できなかったタクシン 元首相は、ロンドンなどを拠点に復帰の道を探し、親タクシンのサマ ック政権が発足したのを見届けて、同月末に帰国しました。しかし、 PADによる反政府デモが激化し、カンボジアとの国境地帯にあるプ レア・ビヒア寺院の世界遺産登録をめぐる政府の対応やテレビ料理番 組出演問題での違憲判決でサマック首相は失職し、サマック政権は崩 壊しました。 その後、ソムチャイ前副首相が国民の力党ほか連立与党の支持を 得て新首相に指名され、同年9月25日、ソムチャイ内閣が発足しま す。ソムチャイ首相は、首相府の占拠を続けるPADに対し対話の姿 勢を示しましたが、間もなくPAD幹部の1人が逮捕されると、PAD のデモは激化の一途をたどります。PADのデモ隊は、同年10月には 新政権の施政方針演説と憲法改正の審議を阻止するため国会の包囲を 行い、さらにスワンナプーム国際空港、ドンムアン空港を占拠するな どして、ソムチャイ政権の退陣を迫りました。これに対し、政府は緊 急事態宣言を発動し、警察によるデモ隊の排除を試みましたが、デモ 隊による両空港の占拠は続き、出国できない多数の外国人旅行客が 滞留する異常事態となりました。こうした状況の中、同年12月2日、 2007年の総選挙における党幹部による選挙違反の案件を審議してい た憲法裁判所は、国民の力党、タイ国民党、中道主義党の与党3党に 対し、解党判決を言い渡し、3党の党首および役員全員は5年間の政 治活動禁止の処分を受けます。これにより、ソムチャイ首相は失職 し、ソムチャイ政権は崩壊しました。 2008年は、反政府デモ化により政局が不安定化したことに加え、 折しもインフレ率の上昇で減退し始めていた消費や投資のマインドが 悪化しました。さらに先の空港占拠等による緊急事態宣言の結果、観 光業も大きく停滞し、経済成長率は低下を始めました。
[アピシット内閣の発足]
こうした流れの中で、国民の力党内で最大派閥を形成していたネー ウィン派が、民主党と解党されたタイ国民党および中道主義党の議 員、国家貢献党の一部からの支持を受けて、2008年12月15日、下 院においてアピシット民主党党首が首相に選出され、同月22日、民 主党連立政権が成立しました。アピシット内閣は、世界金融危機と国 内の政治的対立によりタイ経済が大きな打撃を受けているとし、「社 会におけるタイ人相互の調和・思いやり・幸福を回復するとともに、 現下直面している経済危機を乗り越えていくことで、タイの発展を安 全確実かつ持続的な形で実現していく」という経済政策を示し、海外 の輸出市場の景気回復に伴うタイ経済の復興を目指しています。
[アピシット内閣、インラック内閣、軍政への変遷]
アピシット内閣発足2年を振り返るにあたり、2010年12月24日、 政府官邸より2年前との比較情報が公開されました。 リーマン・ショック等の影響もあり、現政権が発足する以前は、 GDPがマイナス成長し、失業者が200万人に達する等、経済の悪化 が予想されていました。しかし、この2年で、輸出動向の改善にも支 えられ、2010年のGDP成長率は7.9%という驚くべき回復を遂げ ています。2010年には失業者が34万3,000人(失業率0.9%)に まで減り、輸出額は前例のない177億ドルにまで上昇しています。 2008年には1,460万人だった観光客数が2009年に1,410万人に 落ち込みましたが、2010年には1,520万人に再び増加しました。こ れらの数値は、株価指数を2倍にも引上げる効果をもたらしています。
ただし、国内での評価は高くはなく、私立バンコク大学がタイのエ コノミスト76人にアピシット政権の経済政策の評価を調査したとこ ろ、総合評価は10点満点中5.12点でした(調査期間:2011年5月 10日~13日)。項目別の点数は国内総生産(GDP)の成長が6.85 と最も高く、続いて公的債務の管理は5.03、社会正義の実現、経済 格差の是正は4.76、物価上昇の抑制は4.00でした。このことから、 経済成長率に比べて、政府への支持された訳ではないようです。
[インラック政権発足]
2011年、タクシン元首相の実妹であるインラック氏が首相に就任 し、タイ貢献党を中心とした連立政権が発足しました。タイ史上初の 女性首相となったインラック政権の課題は、景気対策とインフレ抑制 でした。2013年11月にタクシン元首相の帰国・復権に繫がる恩赦 法案がインラック首相率いる与党タイ貢献党を中心に下院で強行可決 されたことをきっかけに、再び大規模なデモが発生しました。政治混 乱により、2013年の経済成長率は、タイ中央銀行が当初予測してい た4.5%から、実際には2.9%にまで下がりました。さらに、かつて 年率15~20%だった輸出額成長率は2011年以降ほぼゼロとなり、一時安定したかに思われた政情は再び不安定な状態に陥りました。 2014年5月7日、タイのインラック首相が政府高官人事で職権を 乱用したとされる裁判で、タイの憲法裁判所はインラック首相の行為 は憲法違反とする判決を下し、首相は失職することになりました。判 決後、選挙管理内閣は、インラック元首相の後任をニワットタムロ ン・ブンソンパイサーン副首相兼商業相と発表しました。 農民の多い北部を中心としたタクシン派がインラックの失職に反発 しました。タイの人口の半数を占める農民にはタクシン派が多く、支 配層および都市部では反タクシン派が多くなっています。同月15日、 タクシン派と反タクシン派によるデモの最中には爆発により死者が出 る大惨事となり、さらに銃撃戦に発展しました。両派の対立による治 安悪化が懸念され、同月20日、タイ反政府デモを巡ってプラユット・ チャンオチャ陸軍司令官は戒厳令を発令しました。その2日後には、 国家平和秩序評議会(NCPO)を結成して軍事クーデターを決行し、 同国の実権を掌握しました。そして、ニワットタムロン首相代行率い る文民政権を打倒しました。これにより、約3年間続いたタイ貢献党 によるタクシン元首相派政権が崩壊しました。その後、1年かけて新 憲法制定などの改革に取り組んだことにより、選挙は約1年遅れ、暫 定政権が2年以上続きました。
[プラユット内閣発足] 2014年8月25日、国王からの任命を受けてプラユット氏が正式 に第37代首相に就任しました。プラユット政権は閣僚33人のうち 12人が軍人で、陸軍主導の態勢が明確な、軍人色の強い政権となり ました。王政を守ることを最も重要な課題と位置づけ、汚職の撲滅や 貧富の格差の是正、経済や教育の改革など11の重点項目を発表しま した。また、これまでタイにはなかった相続税の導入など、税制改革 にも取り組む方針です。
■ 日・タイ関係
1991年9月には天皇・皇后両陛下がタイを訪問され、2003年8 月には、シリキット王妃陛下72歳慶祝およびウボンラーチャターニ ー大学からの名誉学位授与のため、秋篠宮同妃両殿下および両内親 王殿下もタイを訪問されました。2006年6月のプミポン国王陛下在 位60年慶祝式典に際しては、天皇皇后両陛下が再び訪泰されました。 2007年9月には日タイ修好120周年を迎え、人的交流の拡大、持続 的な日本の対タイ投資および日タイ経済連携協定による経済関係の強 化など、両国関係はますます緊密度を増しています。2013年には安 倍首相が就任後初の外国訪問先の一つとして訪泰し、タイ政府からは 2015年2月と3月にプラユット首相が来日し、同年4月にはシリン トン王女殿下が来日され、近年もその友好関係は変わらず維持されて います。
一般的にタイ人の親日度は高く、一般市民および有識者を含め対日 観は基本的に良好といえます。日本に関する話題も、経済・政治・外 交から文化・観光・ファッション、料理、ハイテク製品まで幅広く取 上げられており、日本に対する高い関心度がうかがえます。特に、ア ニメ・漫画・映画などのポップカルチャーは、タイの青少年を中心に 確実に浸透しており、製造業以外の日本の進出の裾野を広げていま す。
 [在留邦人数]
タイの在留邦人数は7万5,647人となり(外務省/2018年)、前年比2,893人の増加となりました。2018年の国別順位は5位であり、 このうち5万5081人がバンコク在留で、都市別では2位となってい ます。また、近年、バンコクの都市別順位は不同で、ロサンゼルスに 続く在留人数で、まだ増加し続けています。

タイの政治

■アジア通貨・経済危機以後の政治

<アジア通貨・経済危機>
1997年初頭、海外で調達された資金の不動産への流入などにより、タイ経済はバブルさながらの様相を呈していました。しかし、国際的投機筋の動きもあり、バーツ切り下げの圧力が高まった結果、政府は為替管理制度を通貨バスケット制から管理フロート制に移行しました。1997年7月2日のことです。
その結果、バーツは大きく売り込まれ、その動きは他のアジア諸国に波及し、アジア各国通貨が暴落することとなります。この結果、金融機関や企業破たんが相次ぐ経済混乱に陥りました。これがいわゆる「アジア通貨・経済危機」です。
同年8月5日、タイはIMF融資172億ドルの受入条件を受諾し、抜本的な経済構造改革に着手し、10月には、民主化を推進する憲法改正を行いました。
<タクシン政権の発足>
このアジア通貨・経済危機の経済低迷が回復基調にあった2001 年、タクシン・チナワットを党首とするタイ愛国党が、中小企業や農村重視の姿勢を打ち出し(「デュアル・トラック・ポリシー」)、国民の支持を得ました。そして同年の総選挙で圧勝しタイ愛国党と、新希望党、国民党、自由正義からなる4 党連立のタクシン政権が発足しました。国民の高い支持と下院における安定多数を背景に、2005年1月には、タイ政治史上初めて、議会の任期を満了する政権となり、同年2月の下院総選挙を経てタイ政治史上初めて一党単独政権となりました。この間、これらの内需拡大政策の効果と見られる個人消費の活性化等もあり、経済は2007年頃まで比較的高い成長を続けます。
<タクシン政権の崩壊とその後の政治混乱>
ところが、2006年になるとタクシン首相の政治手法、シンガポール系企業への株売却に絡む不正疑惑が浮上し、市民民主化同盟(PAD、通称「黄シャツ」)を中心とする反タクシン運動が高まります。首相は下院を解散し、4月2日に総選挙を実施しました。主要3野党はボイコットし、愛国党は過半数票を得ましたが大量の白票で定員割れし、首都などで市民デモが繰り返され、首相は退陣の意向を表明しました。憲法裁判所は選挙無効の判断を下し、再選挙が行われる予定でしたが、9月19日夜、政治的混乱を収拾するとしてソンティ陸軍司令官率いる軍がクーデターで実権を握り、タクシン政権は失権しました。
<タクシン政権崩壊後の政治混乱>
政変を受けて発足したスラユット枢密院顧問官(元国軍最高司令官)を首班とする暫定政権の下、憲法起草議会により新憲法の起草が行われ、2007年8月にタイ政治史上初の国民投票が実施され新憲法が制定されます。
同年12月23日、同憲法に基づき下院総選挙が実施され、愛国党を継承する国民の力党が過半数に迫る議席を獲得し、2008年2月6日、同党を中心とする6政党によりサマック党首を首相とする連立政権が樹立されます。外遊中のクーデターにより帰国できなかったタクシン元首相は、ロンドンなどを拠点に復帰の道を探し、親タクシンのサマック政権が発足したのを見届けて同月末、帰国を果たしました。 しかし、PAD による反政府デモが激化し、カンボジアとの国境地帯にあるプレア・ビヒア寺院の世界遺産登録をめぐる政府の対応やテレビ料理番組出演問題への違憲の判決でサマック首相は失職し、サマック政権は崩壊しました。
その後、ソムチャイ前副首相が国民の力党ほか連立与党の支持を得て新首相に指名され、同年9月25日、ソムチャイ内閣が発足します。ソムチャイ首相は、首相府の占拠を続けるPADに対し対話の姿勢を示しましたが、間もなくPAD幹部の1名が逮捕されると、PADのデモは激化の一途をたどります。PADのデモ隊は、同年10月には新政権の施政方針演説と憲法改正の審議を阻止するため国会の包囲を行い、更にスワンナプーム国際空港、ドンムアン空港を占拠するなどして、ソムチャイ政権の退陣を迫りました。これに対し、政府は緊急事態宣言を発出し、警察によるデモ隊の排除を試みましたが、デモ隊による両空港の占拠は続き、出国できない多数の外国人旅行客が滞留する異常事態となりました。こうした状況の中、同年12月2日、2007年の総選挙における党幹部による選挙違反の案件を審議していた憲法裁判所は、国民の力党、タイ国民党、中道主義党の与党3党に対し、解党判決を言い渡し、3党の党首及び役員全員は5年間の政治活動禁止の処分を受けます。これにより、ソムチャイ首相は失職し、ソムチャイ政権は崩壊しました。
この2008年には、反政府デモ隊の活動の活発化により政局が不安定化したことに加え、折しもインフレ率の上昇で減退し始めていた消費や投資のマインドが悪化するとともに、先の空港占拠等による緊急事態宣言の結果、観光業も大きく停滞し、成長率は低下を始めました。
<アピシット内閣の発足>
このような流れの中で、国民の力党内で最大派閥を形成していたネーウィン派が民主党と解党されたタイ国民党及び中道主義党の議員、国家貢献党の一部の支持を受けたため、2008年12月15日、下院においてアピシット民主党党首が、首相に選出され、22日、民主党連立政権が成立しました。アピシット内閣は、世界金融危機と国内の政治的対立によりタイ経済が大きな打撃を受けているとし、「社会におけるタイ人相互の調和・思いやり・幸福を回復するとともに、現下直面している経済危機を乗り越えていくことで、タイの発展を安全確実かつ持続的な形で実現していく」という経済政策を示し、海外の輸出市場の景気回復に伴うタイ経済の復興を目指しています。
<アピシット内閣、インラック内閣、軍政への変遷>
アピシット内閣発足2年を振り返るに当たり、2010年12月24日政府官邸より2年前との比較情報が公開されました。
リーマン・ショック等の影響もあり、現政権が発足する以前は、GDPがマイナス成長し、失業者が200万人に達する等、経済の悪化が予想されていました。しかし、この2年で、輸出動向の改善にも支えられ、2010年のGDP成長率は7.9%という驚くべき回復を遂げています。また、失業者も2010年には34万3千人(失業率0.9%)にまで減り、輸出額は前例のない177億ドルにまで上昇しています。観光客数も、2008年には1,460万人だった観光客数が2009年に1,410万人に落ち込むものの、2010年には1,520万人に急増しました。これらの数値は、株価指数を2倍にも引き上げる効果をもたらしています。

 

ただし、国内での評価は成長率ほど高くはなく、私立バンコク大学がタイのエコノミスト76人にアピシット政権の経済政策の評価を聞いたところ、総合評価は10点満点中5.12となっています(調査期間:2011年5月10日~13日)。項目別の点数は「国内総生産(GDP)の成長」が6.85と最も高く、続いて、「公的債務の管理」は5.03、「社会正義の実現、経済格差の是正」は4.76、「物価上昇の抑制」は4.00でした。この点を考えると、経済成長率の数字ほどに、政府が支持された訳ではないようです。
2013年11月にタクシン元首相の帰国・復権につながる恩赦法案がタクシン元首相の実妹であるインラック元首相率いる与党タイ貢献党を中心に下院で強行可決されたことをきっかけに、再び大規模なデモが発生すると、一時安定したかと思われた政情は再び不安定な状態に陥りました。2013年の経済成長率は政治混乱でタイ中央銀行の当初の予測4.5%から2.9%に下がり、かつて年率15~20%で成長していた輸出額成長率は、2011年以降ほぼゼロとなっています。
その後、恩赦法案は上院で否決されましたが騒動は収まらず、2014年5月にタイ陸軍司令官のプラユット氏率いる国家平和秩序維持評議会(NCPO)が軍事クーデターを決行しました。NCPOは暫定政権を発足させず、自ら政治・選挙制度改革を行う予定で、民政復帰のための選挙は2016年としています。

 

参考文献

■Webサイト

[1] 外務省 「タイ王国」 外務省 「タイ王国」

[2] 「在タイ日本国大使館――領事関連情報」 「在タイ日本国大使館――領事関連情報」

[3] 気象庁「東京 降水量の月合計値」 気象庁「東京 降水量の月合計値」

[4] 国 土 交 通 省  気 象 庁 国土交通省  気象庁

[5] 総務省統計局「世界の統計――第二章 人口」 総務省統計局「世界の統計――第二章 人口」

[6] 三菱東京UFJ銀行「外国為替相場一覧表」 三菱東京UFJ銀行「外国為替相場一覧表」

[7] 在東京タイ王国大使館「タイ基本情報」  在東京タイ王国大使館「タイ基本情報」

[8] 日本経済新聞 「タイのプミポン国王が死去 在位70年」2016年10月13日 日本経済新聞 「タイのプミポン国王が死去 在位70年」2016年10月13日

[9] Cilsien – ASEAN Info Clips Cilsien – ASEAN Info Clips

[10] 大泉啓一郎「タイ・プラユット暫定政権の経済政策の行方」環太平洋ビジネス 情報 RIM2014、Vol.14 No.55 大泉啓一郎「タイ・プラユット暫定政権の経済政策の行方」環太平洋ビジネス 情報 RIM2014、Vol.14 No.55

[11] 大泉啓一郎「タイ・プラユット暫定首相の所信表明演説」アジア・マンスリー 2014年11月号 大泉啓一郎「タイ・プラユット暫定首相の所信表明演説」アジア・マンスリー 2014年11月号

[12] 「【タイ】プラユット陸軍司令官が暫定首相にクーデターを主導、強まる独裁色」HUFFPOST、2014年8月22日 「【タイ】プラユット陸軍司令官が暫定首相にクーデターを主導、強まる独裁色」HUFFPOST、2014年8月22日

[13] JETRO「タイ――概況」 JETRO「タイ――概況」

[14] 国土交通省国土政策局「各国の国土政策の概要――タイ」 国土交通省国土政策局「各国の国土政策の概要――タイ」